消えるミカン畑 志手天神社界隈
天神社裏の造成が始まったようです。ミカン畑だったところが住宅地に変わるようです。
1週間後の10月11日。場所を移動しながら造成作業を見てみることにしました。
天神社から移動して、まずは立て看板を写真に収めました。敷地面積が約9,000㎡で、工期は令和7(2025)年7月までと書いてありました。結構広いですね。
さらに、隣りの桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)に行き、坂を上って一番上の記念館のところから見ることにしました。
記念館のところから隣りにカメラを向けると
(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)
桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を含めて、このあたりの景色はここ数年随分と変わりました。たくさんの桜が植えられていることから「桜ケ丘聖地」と名前が付いたのでしょうが、その桜も年を経て倒木の恐れがあるということで、墓地を管理する大分県が伐採、整理しました。
2020年4月にはドローンによる空撮も行いました。
ちなみに上の2枚の写真で白線を引いたところがミカン畑でした。志手名産の「志手ポンカン」が作られていました。
※「志手ポンカン」については、このブログの「志手ポンカン①志手ポンカンは日本一」などをご参照ください。
以前にも書きましたが、大分市中心部に近く、交通の便が良いことが志手の一番の特徴だといっていいでしょう。
昔、志手は小さな集落で、その周りは田んぼで、後背地の丘はミカンなど果樹が植えられていました。高度経済成長とともに県都である大分市に人口が集中することになり、都市近郊の農村地帯だった志手にも開発の波が押し寄せました。
上の地図を見てみると、あらかた開発し尽くされ、志手周辺にはわずかなミカン畑が残っているにすぎないことが分かります。そして“最後のミカン畑”ともいえるものが徐々に消えて行っているのが現状といえます。
【追記】
「駄原(だのはる)?」「長水(ちょうすい)?」。ここは「志手」ではないのか。そう思いますが、ここは「志手」です。
実は「志手」というのは通称で、今の法律(住居表示に関する法律)に基づく住所ではありません。
とはいえ、志手は何の根拠もなく自称しているわけではなく、「志手」には長い歴史があります。「志手村」は江戸時代の地図にも載っています。両隣に「駄原村」と「椎迫村」がありました。
大字の駄原は駄原村から引き継がれたもの。では志手も「大字志手」かというと「大字三芳」です。これは明治時代に隣村の椎迫村などと合併して「三芳村」になったことが原因でした。
住居表示についてはこのブログの「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤『志手』と『三芳』 二つの住所」で少し紹介しています。
昔の志手が小さな集落であったことは既に述べました。集落の周りにあった田畑などが住宅地に変わっていく中で「志手」という通称が広がっていきました。
だから、同じ志手でも地番は「三芳」であったり、「駄原」であったりします。ただ、これで日常生活に困るまでのことは筆者が知る限りありません。
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